なにものかに なりたい。
たとえば、れきしに なを のこした てんさいたちの ようにーー
たとえば、ちょうじんてきな ちからを もっている、みりょくてきな フィクションの キャラクターの ようにーー
いきていて、じぶんにしか できない なにかを したいと おもう。
そして、これが じぶんだと いえるような、そんな なにかを みつけたいと おもう。
もし、なにものにも なれないのなら、そんなの いきてたって なんの いみも ない。
ただ いきていることなんか、いきてる かちが ない。
でも、そういうと
「なにものかって なに?」「なにに なりたいの?」なんて きかれる。
そんなの わかるわけ ないのに。こたえられるわけも ないのに。
りふじんなのは その しつもんの ほうなのに、こっちが おかしいとでも いいたげだ。
そして、まるで きせいがいねんの しょくしゅや やくわりを もとめることが ただしいかの ように。
まるで、この かつぼうを、あたかも せいしゅんの やまいに すぎないのだと。
まるで、なにものかに なるのを あきらめるのが おとなに なることだとでも いうように。
なにものでもない ゾンビが、むかちな ことばの だくりゅうを あびせてくる。
だから こころの なかで、みみを ふさいで ずっと さけんでる。
「なにものにも ならなくても いい」なんて、まけいぬの じこせいとうかも いらない。
「ぼくも むかしは そう おもってたーー」なんて、しったような くちを きく ひとなんて、
その じてんで にせものだ。
でも それでいて ぼくは まだ、その なにものかが なんなのか、わからないまま もがいている。
それが、くのうや ふこうを もたらすとしても、それより たいせつなものが あると おもっているから。
こどくで いることが、まだ ぼくが にんげんで あることの しょうめいだと しんじてるから。