あんしんで、あんぜんで、ゆたかに くらせている。
それなのに、いったい なにが ふまんだというのか。
ただ、あんしん あんぜんといった
せいめいの きほんてきな よっきゅうが みたせているだけでなく
ごらくや しゅみにも じかんをつかうことができる。
それなのに、いったいなにが ふまんだというのか。
そういわれると よくわからない。
せんじんが きずいてきた よいかんきょうが ありながら、
まだなにかを ほしがる、わがままな にんげんなのだろうか?
でも、このこころのなかに たしかにある
このもやもやは なんなんだろう?
あまえているだけ? そんなんじゃない。
このかつぼうは、もっと にんげんであることの
こんげんと かんけいのある なにかだ。
いきるために、よりかいてきに いきるために
さまざまな かがくぎじゅつを はってんさせてきた。
しょくりょうを あんていてきに えるために、
のうぎょうを はってんさせて、かこうぎじゅつも みつけた。
けんこうに すごすために、びょうきを ちりょうするすべを みつけた。
たいくつに ならないように、ごらくをうみだし
だれでも それを うけとれるように、ふきゅうさせた。
いきられるように、
そして よりかいてきに いきられるように
そればかり かんがえてきた。
でも、たぶんそれだけじゃ、じゅうぶんじゃない。
いきること、よりかいてきに いきることは
にんげんの かたがわしか みていない。
しぬこと、よりよくしぬこと。
これがなければ、ただ いきのびることに、いみが そんざいしない。
いみなく いきのびるいのちは、たぶん きょむだ。
もうだれも、しについては、かたってくれない。
いきることばかり、かんがえている。
でも、そのあかるさで、なにもみえなくなっている。
ゆーとぴあで、もうもくになっている。
まだ、だれかいないのか? しをみつめている、にんげんは。。。